カラフルな殻は空だった

思いつきの備忘録でしょうか

映画館?

最近、なぜ映画館に行ってるのかよく分からない。

「そりゃ映画を観るためだろう」

と、ごもっともな一言で済まされることではある。

そりゃそうなんだが、なんだかもやもやするものがある。

単純に、興味を失ってしまっただけなのかもしれない。それならそれでいい。だらだら書いて、この疑問の答えがそうと分かるならそれで十分。

 

そもそもなぜこう思ったかというと、ある映画館の閉館イベントに、「初めて来る方はご遠慮ください」という注意が成されていたことがきっかけか。
https://twitter.com/tcinepara/status/972421501856104448

 

それまで、映画館という場所はいつでも自分を受け入れてくれる場所だという幻想を抱いていた。
そんな中この一文を読んで、それがこちらの傲慢な考えだったとしたら…とふと思ってしまい、なんとも落ち着かない日々が続いている。

 

その後に別の映画館からツイートがあった。
https://twitter.com/k_scalaza/status/972447781620084736
閉館することでその映画を知る、というのが悲しいのだ。うん、その通りだ。

 

これは映画館に限ったことじゃない。一世代前の映画俳優が死んだ、というニュースでその人に触れ、出演作品を漁ることはよくあることだろう。そして思う、「なんでこんなに素晴らしい人を知らなかったのか」と。

 

閉館間近にのこのこやってきて、「僕、お葬式が好きなんですー。香典あげさせてくださーい」じゃねぇよな。

 

そうなる前に、映画館に通いたいのだ。愛着の持てる映画館を見つけたい。閉館なんてことは考えたくない。だからこそ、映画館にもいつ閉館してもいい、ってくらいに本気の興行をしてほしい。

 

 

3月、京都みなみ会館が凄まじいほどの特集を組んでいた。自分自身、3月だけで7回は行った。

チケットを買うときは何も考えてなかったけど、では果たして私は閉館イベントにそれだけ行く価値のある人間だったのか。みなみ会館を知ってまだ2年もなく、そんなに通ってる訳じゃないし、ぺーぺーの部外者なんじゃないか、ってことが頭をよぎってしまう。映画自体は悪くないのに、そういうことを考えてしまって、どこか居心地の悪さを感じてしまったのが辛い。もっと行くべき人間がいるのではないか、ただ『行く"べき"人間』って誰なのか──。それがもやもやしている気がする。

 

 

観た映画と共にその映画館も記憶に残り、そしてそれが思い出となって愛着が湧く。『青春時代にあの映画をここで観た』、『彼女とここに映画を観に来た』『ここで上映された映画が好き』などいろいろあるだろう。
しかし、自分にとって、2年かそこらというのは「思い出」として語るにはあまりに最近で、唐突すぎる。

 

 

映画館(特にミニシアター、名画座)は映画を上映することはもちろん、「記憶に残る」ような雰囲気を作ることも大事にしていると思う。恐らく、いい雰囲気とは、居心地・環境(機材など)の良さなどより、「思い出」として刻まれるかどうかなのではないだろうか。

 

例えば、シネコンで(午前10時の映画祭とか)観る『仁義なき戦い』と、新世界東映で観る『仁義なき戦い』は、全く別の「思い出」になるだろう。

 

新作を続々と公開するキレイなシネコンで観る旧作はもはや"名画"として認知され、周りのお客さんもそのつもり。そんな中で観る『仁義なき戦い』には歴史的意義があり、美しさすら感じられるのかもしれない。とても特別な体験だろう。

 

新世界東映ならどうか。タバコの煙にまみれたスクリーンに写し出される汚いフィルムによる映像、気だるいおっちゃんたち、そんな中で毎日実録モノや任侠モノがオールナイトで上映されている。(そしてすぐ隣にはポルノ映画館とゲイ映画館が…。)おっちゃんたちにとっては、『仁義なき戦い』が上映されたところでそれは日常にすぎず、特別なことではないのだ。

 

多数の人にとって、"居場所"となりうるのは圧倒的にシネコンだろう。
シネコンはやはり不特定多数の人に向けられた場所であるからそうなるのはしょうがない。特別なものが上映されても、別に新世界東映に通うおっちゃんたちに向けて上映されているはずはないし。
ある人の「日常」はある人のそれとは決して相容れないもので、新世界東映のように、狭いコミュニティで成り立っている場所には他人は入りづらく、部外者なのだ。席に座るにしても周りの目が気になり、いつまでも落ち着かない。それが普通だろう。

 

しかしそれでも、私は新世界東映で観たいと思う。このとき私は居心地を求めるのでなく、刺激を求めているのかもしれない。物珍しさ故でもいい。その映画館に行くというだけで“普通でない“体験ができるのなら、それだけで十分な価値があると思う。

新世界東映という例はかなり極端ではあったかと思うが、まぁ、一例として。

 

 

こういろいろ考えてみると、
映画館を特徴付ける核となるのは
・上映作品
・観客
・建物(装飾)
の3つのような気がする。

 

・上映作品に関して、よく行く関西の映画館で言えば、
シネコンでは
ブルク7はアニメがよく盛り上がってる印象だし、
それ以外だと、
七藝はインディーズ系の新作、
シネヌーヴォは監督・俳優ごとの特集、
シネマート心斎橋韓国映画
京都みなみ会館はオールナイトや怪獣映画、
塚口サンサン劇場はアニメ映画・インド映画のマサラ上映
プラネットプラスワンはザ・名作映画(適当すぎるな…)
と、(かなりザックリで個人的な印象だが、)系統もけっこう違う。
おそらくこういった映画館は遠出してでも観に行く人がいるはずだ。
私も近所では上映されない映画を求めて、最寄りの映画館を通り過ぎることは多々ある。

 

・観客に関しては、
地元の人が多い映画館と、
上映作品によって集まる人が違う映画館(これは上記のものが多いか)
があるように思う。

これまた勝手な個人的印象で申し訳ないが、
シネピピア、元町映画館、シネマ神戸、パルシネマは地元の人が多いような印象。

 

とりあえず、二番館として機能することがメインの映画館は地元の人が集まることが多いだろう。観たい映画を公開日に観るには映画館が遠すぎる、ということは地元にいたころはしょっちゅう経験していたからわかるつもりではいる。

 

・建物(装飾)は、映画”館”と言うだけにけっこう大事だと思う。
一戸建ての映画館が個人的にはとても好きなんだが、映画を観るという目的以外にも、その場所に行くという楽しみがあって、洒落た内装や特集が組まれているときのポスターがずらりと並ぶ姿は写真を撮りたくなる。

 

少なくとも上の2つは必要最低限の要素だろう。最悪、建物はなんだっていい。

 

 

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もちろん、画面のデかさや音のヨさは大事だろうけど、──映画館が観客なしには成り立たないのは当然として── それは別の映画館でもかかっている映画をわざわざ自分の映画館で観てくれるように付加価値をつけた、ということにすぎないのではないだろうか。裏を返すと「上映作品で勝負できない」ということのような気もして少し哀しかったりもする。(そうは言っても、付加価値に乗っかることはよくあるし、せっかくある機材を活かしてそれに適した作品を上映してくれるのはありがたいんですよ!)
もちろん、大画面で、いい音響で映画を観るということが映画鑑賞の醍醐味であることは間違いないが、上映作品が伴ってこその設備であることに疑いの余地はない。
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さて、上の3つの中でも、映画館で映画を観る上でその体験を良くするか悪くするかを一番左右するのは、観客、つまり誰と観るかだと思う(逆に「誰もいない」場合もあるか)。だからこそ映画館のマナー問題がしょっちゅう話題にあがる。友達と観る、彼女と観る、家族と観る、そういう小さい規模で考えてもそうだろう。私は基本的に1人で観ることが多いからあまり分からないが、それでも館内の雰囲気がいいととても観やすい。

 

ただ、居心地の悪さを感じてしまう要因も、この“観客“のせいであるように思えるのだ。(マナー云々の話でなく。)

 

映画を観ている時に笑い声が漏れたり、涙を流す人がいるような場合はとても居心地がいい。

 

そんな中、ふと周りのお客さんのことを思う。
彼らはどんな人なんだろう…。
映画の趣味がはっきりしていれば通う映画館は自ずと絞られてくるし、公開時期さえ我慢できれば近くの映画館で済むっていう人もそうだろう。通う映画館が少ない人にとって、その映画館は必要不可欠なものであり、生活の一部にもなっているかもしれない。

 

そんな中に入っていって映画を観てることが、どうにも気後れしてしまうのかもしれない。
頻度の差こそあれ、気ままにふらふらいろんな映画館に行ってしまう質なので、ここ!という映画館がほとんどなく、自分のことを勝手に浮浪者のようなものだと思ったりしてしまう。周りの人と、自分の、その映画館(あるいは映画)に対する思いの違いを意識してしまったりするのだ。

 

たとえその映画館が潰れても、私にはまだ他の選択肢があるが、そうでない人だっているだろう。大した思い出がある訳でもないから、悲しいとは思うものの、深い悲しみ、とまではいかないだろう。

 

何かしらその映画館に対して行為があれば、また違ってくるとは思う。クラウドファンディングに参加したり、ボランティアスタッフになったり、イベントに積極的に参加したり…。でもそういうことは今のところやってない。

 

 

またここで例を。
新世界東映の例も当てはまるが、他に塚口サンサン劇場のマサラ上映なんかも、ちゃんと楽しくはあるのに、どこか疎外感を感じてしまうのだ。

前説で「みんな仲間です」との言葉があったりするが、そうは言ってもやはりその中で格差があるのは仕方のないこと。通い詰めている方と初心者には明らかに差がある。もちろん初心者が楽しめないといってる訳ではない。それでも、常連の方の盛り上がりを観ていると、「俺ってここまではノれてないよな」なんて思ったりしてしまって、まぁ、こんなことを思う自分が不甲斐ないのでしょうね、はい、ごめんなさい…みたいな…。
もちろんノれる人はノれるだろうし、ただそれもやっぱり“みんなと観ている“からこその楽しさなんだろう。

 

ちなみに、LIP'Sの方が盛り上げて下さるロッキー・ホラー・ショーの参加型上映はとっても楽しい。何が違うんだろうかと考えると、そもそもあの人たちが「盛り上げ役」として活動されてるからなんだと思う。それが前提になってるから受け入れやすいし、自分もそれに乗っかっていこうって気分になる。(一般人だとどうしても「自分自身が盛り上がろう」としてるのが一番にあるから、ちょっとそれに乗りにくい面もある。そうでない人もいるけどね。)

 

 

今のところ、私が自分の居場所だと言える映画館は地元の映画館くらいだと(勝手に)思ってる。常連の人とも親しくしてもらってるし、支配人の方にも見知ってもらえている。それが理由なのかと言うと微妙だけど、単館系の映画に触れたのもこの映画館が初めてだった気がする。

 

 

ただ、ここまで書いてきても、私が自分自身の居場所を映画館に求めていたこと自体がそもそも間違っていたのかもしれないと、やっぱり思う。

 

一般的に、映画館では暗闇の中に2時間かそこら拘束され、他人と一緒に画面を眺めるものであり、それさえあれば満足できるものではないだろうか。

 

そこに特別な何かを求めてしまっていた。自分にとって愛着のある映画館なんてのは、1人に1館でもあればそれはかなり幸せなことだし、ミニシアターや名画座のような映画館はその存在自体稀で、こんなことで悩むのは贅沢なことでしかない。

 

自分にとって特別な映画館がなくても、映画館は映画館というだけで「見ず知らずの他人が、同じ空間に2時間閉じ込められて、同じ画面を観続ける」というけっこう異質な場所だろう。

いくら地元の人が多くても皆に開かれた場所であってほしいし、いくらその映画のファンが多くても違う価値観の人間がごちゃごちゃになっていろんな楽しみ方ができる場所であってほしい。私がいろいろな映画館に求める一番のものは多分そういうとこなんだと思う。

 

 

今は自分にとって「ここしかない」と言えるほどの映画館はないし、思い入れが深いところも少ない。
「観たい映画がそこで上映される」から映画館に行くことしかできないのだ。でも多分、今の私にはそれでいい。いつか思い返したときに、何かが残っていたら、その時その映画館がいとおしく思えるのかもしれない。

 

 


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↑シネヌーヴォの館内